昭和40年9月22日 朝の御理解
暑いときには、風鈴の音色のなかからでも涼を得ようとする。涼しくなると、風鈴の音を聞いとっても、それは、熱い寒いを感じない、丁度良い今のような時期ですよね。まあ、暑さ寒さも彼岸までと、こういう。彼岸のころともなると、暑さも寒さも感じん、丁度良い時期になってくると、かえって、風鈴の音が寂しいくらいになる。熱いときには、風鈴の音を聞いたからといって、特別その、涼しくなるのではないのだけれども、風鈴の音からでも涼しさと、いわゆる、涼を求める心がお互いの心の中にあるけれども、その暑さが段々、なくなってきて、その暑さも寒さも感じんようになってくると、その音色が、かえって寂しいものになってくる。悲しいものになってくる。ほんとに、そんな、うら悲しいものになってくるですね、秋の風鈴なんて聞いとったら。早くやっぱり取り除かなければいけん。私共が、何かそこに一つ、難儀が起こってまいりますと、いわゆる、暑い寒いを感じると、一生懸命お参りもさせてもらう、一生懸命ご理解も聞かせて貰う。ほんとに、御理解を頂くだけでも自分の心に、丁度涼を得るように、自分の心の中に何か有り難いものを感じることが出来る。そしてそれが、おかげを頂いてまいりましてから、暑さ寒さも感じんようになると、もう、御教えも、ご理解も、ただ、聞いておるというだけになる。寂しいものになってくる。ただ、今まで、こと新しい御教えでも頂くと、なるほどそうだなと、合点ぐらい致しますけれども、ただ、そういうことによって、信心が高尚になると言うだけであって、それが、血に、肉に、いわばその日一日を有り難いものに支えるというほどしの物になって来ない。寂しさは、もう、御理解をそういう風に頂くようになってくることだと私は思う。それは、私共が、秋の風鈴を聞かせて頂いて、うら寂しさ、悲しさを感じるように、天地の親神様も折角のその、風鈴の音にも似たような、いわば、御理解なら御理解をです。ただ、頂くだけ、聞いておるだけ、生き生きとしてそれが働きの原動力、元になっていないというような、いわば姿をご覧になるときに、神様もまた、うら寂しい、うら悲しい思いをなさるときじゃなかろうかと私は思う。どうでしょうか皆さん。神様に、うら寂しい思いをさせているような事はないだろうか。ただ、かろうじて、お日参りが、その信心の命を繋いでいるというだけ。いわゆる、信心のマンネリズムといわれることを申しますが、いわゆる、マンネリになっておるわけですね。もう、椛目全体にこれが言えると思うんです。
昨日、吉井の熊谷さんが朝の御祈念のあとにその、お届けをされますのに、何時も、二十日に、信心の共励会といいますが、波多野さんと熊谷さんですたいね。二人が、二十日の日を日を切って、まあ、夕方から、夕食のあとお茶でも頂かせていただきながら信心話をする、二人で信心の共励をなさる。けれどもそれが、朝晩、朝晩じゃない、朝の御祈念なんかにお参りして見えると、いわば、場合によっては行きも戻りもというように、話すことは信心のこと。ですから、わざわざ、共励会をほんなら二十日の日に集まっても、ことさら、ほんならこれという事も無い。ですから、まあ、場合によると、九時が十時になる、もう寝掛けになるころにその、ようやくハツノさんが見えてお話をするといったような、まあ、続いてはいるのだけれども、まあ、いわゆる、うら寂しいものであったと、こういうことである。ところが、先日の、お月次祭に、あちらの吉井の教会の御信者さんが二人お参りになって、二十日には、こうこうして信心の共例を二人でやっておりますから、どうぞ貴方方もお見えになりませんかと言うて、その案内をしておりましたら、もう、八時ごろから二人で出会って見えると。とってもほんとにもう私は、もう、永年信心させて頂いておるけど、ああいう御理解を頂いたのは初めて。また、ああいうお月次祭を拝んだのも、勿論初めて。うちあたりの大祭でもあげなことは無い。もう、あのお参りの御信者さん方の雰囲気、もう何を見ても聞かせて頂いても、ただ、私の心の中に、まあ言うなら、カンフル注射でもしたようにです、信心が生き生きよみがえるようであったと言うて喜んでおられたということ。皆さんは、そういうような中に何時も浸っているんですけれども、それを、それと感じないということは、ほんとに、マンネリズムになってるという事を一つ思わなければいけないと思うですね。なるほど、ここでは、その御理解も、私自身もそれを感ずるんですけれども、もう、限りなく御理解を頂いて、しかも、ほんに、そういうことは今まで知らなかったなあと、というようなその勉強にはなる。分かっては行くけれども、それが、生き生きとした働きにはなっていないと。生き生きとした喜びの湧いてくる源泉ともなっていないということ。「ね」。いわば、泉の水が沸くように、喜びが湧いて出るようなところまで行っていないということ。考えてみると寂しいことである。神様からご覧になったら、悲しいことであることになるのじゃないだろうかと。これは、もう、なんでも椛目の信心の皆さんだけのことではありません。もう、人間てのは、得てしてそう言うものなんです。例えて、まあ、一例を言うなら、もうあの、上滝(こうたき)さんがこの頃から、そらもうほんとに、朝参り、夜参りもう、それこそ生き生きとしておる。もう、心躍動しておるような、そのお参りを続けておった。勿論、もうこの、御造営に当たって、こういう気分になったことが有り難いと。けれども、よーく良く、元を正しよったら、息子が身体が悪いからだった。「ね」。医者でも首をひねるような病気であることで、こらいかんと、こう思うたもんだから、一生懸命にお参りするようになった。しかも、朝参り、夜参りであった。生き生きとして御用もさせて頂きよった。ところが、おかげを頂いて、この頃から、学校から一週間の勉強のための旅行があったんですけれど、行ったけれども、おかげで無事で帰ってきた。おかげで(ふくらにめによく?)なった。そしたら、ぴしゃっとそれが変わってしまっておるんですから。「ね」。これは上滝(こうたき)さんだけのことではない、お互いのことがそれが言えるんじゃないかと。ただ、なるほど、かろうじてお参りが続いておってもです。生き生きとしたものというのは、してみると、なんか難儀なことでも無からなければ、生き生きしないかという事になるのですねえ。しかし、何時も、痛い、かゆいを感じておる。何時も暑いを感じておるから、風鈴の音色の中からでもその、涼を求めるという心。兎に角、うちにじっとしてはおられん、御祈念でもさせてもらいよらなければと。御理解でもいただきよらなければ、もうこれがもてん。御理解を頂けば頂くほど、というように、風鈴の音色を聞かせてもろうては、心に涼を。まあ、何とはなしに自分の心の安らぎをそれによって、求め得ておった。「ね」。
毎日お参りをさせてもらう。まあ、朝の御理解を、まあ、朝参りにお参りは出来んと、昼ごろから、お参りしてきて、御理解を頂く人達が段々ある。けども、それは、何か知らんけれども、お勤めのような頂き方である。ただ、聞いておるだけ。まあ、言うなら、聞かじゃ先生に悪いから聞いておるだけ。その証拠には、生き生きとしたふうになっていかずに、信心が段々、あれやらこれだと、口実ばかりが付いて、お参りが出来ないです、朝参りなら朝参りが出来なくなってくるです。「ね」。これは、私は信心のある意味では危機だとこう思う。何とかここに工夫をしなければいけない。と言うて、ほんなら、一丁御無礼しといてから、一月に一遍か、二編かお参りするなら、もう形変えんでも、ほんなごつそれは生き生きとしてくるだろうと思うです。「ね」。自分の、いううなら、気分の良か時にお参りをしてきておる。ほんとやっぱり、御理解いただかにゃん。兎に角、私は思うんですけれども、御理解が血に、肉になるようなご理解に、ほんとに御教えに取り組むという毎日、日常。取り組むことの楽しみといったような、また修行といったようなものが、掲げてくるところに、そうした信心のマンネリズムということになって来るのじゃなかろうかとこう思うのです。
昨夜、ここを下がっておりましたら、伊万里から電話が、竹内先生から電話が架かってきて、あちらの、御信者さんの中に、えー、高血圧で非常にこう、手足がこう不自由なんですね。丁度、私みたいなもんでしょう、動きが。それで、病院にいかれたところが入院しなければいけないという事になったんですけれど、おー、先生どんなもんでしょうか。お伺いをしてくれと。入院をしたほうが良いだろうか、そのままで良いでしょうかというお伺いであった。で、私はその、このご理解のテープを何時ももっておいでておられますから、本気で御理解を頂かれる気になったら、入院は要りませんていう事を私は伝えさせていただいた。本気で御理解を頂くことになると。聞くのじゃない、頂くのだと。「ね」。聞くのは、こちらのほうから聞いて、抜かしても良いわけですよ。「ね」。そして、なるほどと思うたら、なるほどとこう思うて、合点するだけぐらいの事ですはねえ。頂くということはです、頂くんです。食べるということです。「ね」。御理解を頂くということは、自分がそれを食べる、頂くということ。それは、例えば、ご飯を頂くようなもの、頂くものである。頂くから、それが血に、肉になる。なるほど、入院ぐらいのことではない、薬飲むぐらいのことじゃない、いわば、おかげというものが頂けるんですけれども、ただ、聞くだけではいけません。御理解を本気で頂ききる。しかも、二編、三遍、同じ御理解でも良いから、一生懸命にそれを頂く気になりゃあ、私は入院はいらんと。と言うて、電話でご返事をさせてもらったんですけれども、私共も、御理解を聞いておるだけじゃないだろうかとこう思うんです。「ね」。御理解を聞いておるだけではです。兎に角、寂しいことになる。風鈴の音色が何時もやはり同じ音色であるように、私が説くところを、やはり何時も同じような調子で、同じような事柄を少しこう変えて、そのあいだに、ちょこっと自分の心に掛かるような新しい言葉、新しい角度から見た御教えなどは、はっとこう斬新なものを感じるという程度のことだけではなくてです。どういうような御理解の中からでも、私共は、日々、お日参りのおかげを頂いておる。他所の教会では、毎日このようにして御理解なんてものは、まあ、無いです。有っても、まあ、御教えをこう読んで下さるようなものです。ですから、何べん、何十遍同じ調子で、しかも同じ言葉でです、教祖の御教えを読まれるなら読まれるだけのことですけれどもです。それを、こちらの、生き生きとした心を持って頂いておりますとです。その同じ教祖の神様の御教えが、御理解がです。新しいものとして頂けてくるのです。いや、今日はご理解のあそこんところを頂かんならん。あそこのところを今日は修行させてもらおうというようなものを、これに感じて帰ることが出けた。もう、何にもご理解を下さらん時には、ここんところに、あの、日めくりのカレンダーが掛けてある。「ね」。そこに例えば、何日なら何日のカレンダーに書いてあるそれを教えの一つのヒントをその中からヒントを頂こう。というような気持ちで、えー、おかげを頂いたようなものです。その点、椛目ではもう、皆さんがもう食べ過ぎるくらいに、いわば出ておるです、限りなく出ております。それをやっぱ頂くのですから、もう腹いっぱいというようなことや、眠気が付くというようなことも勿論あるだろうと思います。「ね」。ですけら、もうそれは、やもうえんといえば、やもうえんのだけれども、ほんとに、居眠りがでるとか、もう腹いっぱいだとか、あれはもう、この前聞いたごたる様なお話だというふうに感じるときには、やはり工夫しなければいけない。言うなら、神様に秋の風鈴を聞いて、寂しさやら、秋のうら悲しさを感じるように、神様にも、うら悲しさを感じさせているのじゃ無いかということを思うてです。それからと言うて、そんなら私共の、願い事というものが絶えぬはずは無いのです。「ね」。農家の方達が、畑なら畑を耕される。肥料を施される。種をまかれる。水を掛けられる、肥料を掛けられる。育つ。「ね」。ここにおかげを頂いたら、あとはもう、ほうからかしとっても良いかということは無いでしょうが。無尽蔵に限りなく頂かせてもらう、いわば、大地という土台がです。「ね」。やはり手を入れなければならない。草もとらなければならない、除草もしなければならない。しかも絶えずこれが繰り返されなければ、限りなく、下から生まれてくるところの、お野菜ならお野菜といったようなものは得られないように、信心とは、そんなもんじゃないだろうかと。絶えず自分の心を耕かさなければ、絶えず自分の心の中に除草する、いわゆる、草を取り除かせてもらうという。絶えず自分の心の中に肥料を施さなければ。そして、種をまいていかなければ。そして、育てなければおかげというものは育っていくものではないということです。私共は、もちっと本気で頂かなければいけんのじゃなかろうかと。御理解を聞くのじゃない、いや、頂いておるというけれども、ただ、聞いておるだけではなかろうかと。熊谷さんが、その吉井の御信者さん方のお話を聞かれてから改めてです。ほんとに、自分たちは、そんな中に浸っておるのに、何とはなしに、いわばその、二十日の日に、九時が、十時になって、ただ、お役目にちょいと(くすみ?)さんが見える。「ね」。ほんなら、お茶どん出してから、お茶話で、する話は朝晩、行き戻りする信心話とあんまり変わらない。そういう、何年間というものが、続いておる、来ておるというだけでです。そこに、斬新さというものが無い。新しく始めてきた。しかもその前の晩に、お月次祭を拝ませて頂いて、椛目の月次祭が確かに、その、他所で感じておったような物でなくてです。ほんとに、何とはなしに、賑やかな有難いものを与える。ほんとに、ああいうお祭りを拝んだことは、またああいう御理解を頂いたのは初めてだと。始めて信心の目が開いてきたといってその、お話をされたということですけれども、私共は、開いてはおるけれども、ただ、こう開いておるだーけじゃないだろうかと。生き生きとして、いわばその目が輝きだしてきていないのである。「ね」。そら確かに、そうですもんね。ここで皆さん御理解頂いて、その御理解が皆さん、いわば聞きよるのじゃない、頂きよる人の目はです。輝いてくるです。不思議です。もう、目がもう、ほんとに輝き、えー、輝くんですよ。けれども、目がドローっとなってくる。ただ、座ってから、ほんと、何か聞こえてきよるたいち言うようなこと。そして、座ったときには、今日のご理解は、どげな御理解じゃっ他のちいうごたる風で。「ね」。今日の御理解のあれ。今日の御理解のここと。これを今日一日の、信心の、いわば、日常生活の支えにでも、させて頂かねばならんというような、勢いというものがかげてくるという事は、やはり私共が、やはり警戒、そういうようなときは、そこに何か工夫をしなければいけないという事を感じるんですね。今の、ごしゅっさんに私が申しましたように、御理解を聞くのじゃない、本気で頂く気になりゃ、医者はいらんですよ、薬はいらんですよとこういうようなです、おかげ。「ね」。本当に医者が要るようになり、薬が要るようになり、さあ難儀なことが起こってきたときに、生き生きしてくるのは、あれはほんなもんじゃないということになるですね。まあ、上滝(こうたき)さんの例をとったんですけれども、上滝(こうたき)さんだけのことじゃありません。「ね」。お互いが、本気で、私は、御理解を、いわば、頂くということ。行ずるということ。「ね」。そこんところに、お百姓さんが絶えずその畑を守られる。お野菜を育てていかれる。絶えず草を取られる。肥料を施される。そういうようなことになってきて、生き生きとした良いものが育ってくる。おかげを頂くんじゃないかとこう思うんです。どうぞ神様にです。私はもう、ほんとにそれを思うです。「ね」。神様に、兎に角、秋の風鈴のような、「ね」。ほんとにうら寂しい、またはうら悲しいものを感じさせておるようなことはなかろうかと思うて見なければいけないと思うですね。どうぞ、おかげを頂かれますように。